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【アラベスク】  第8章 荊の城



第2節 鰯のそらと蝉のかぜ [13]




 見下ろす先で、髪の毛が揺れる。
 少し伸びた、美鶴の髪。午後の日差しが明るく甘い。
 この髪の毛、霞流の屋敷で切ったんだよな。
 そう思うと、言いようの無い激しさが湧き上がる。今すぐはさみで、切り落としてしまいたい。
 だができない。
 あの時もそうだった。
 澤村から受けた暴行や疲労からか、家のベッドで泥のように眠ってしまった美鶴。母親の詩織(しおり)を無理やり職場へ戻し、ただ一人で付き添った。
 そばには誰もいなかった。
 なのに自分は、何もできなかった。
 田代里奈に執着した澤村は、抑え込んでいた欲求が暴走した。
 だが自分は、欲求を押し殺しているのではない。
 行動に移す勇気がないのだ。
 瞳を閉じる。
 情けない。
 己に腹を立てながら瞼を動かし、首も動かす。
 美鶴の傍らでいまだに尋問を続ける聡。一本気で、その行動に迷いはなく、ただ無心に美鶴を目指す。
 今だって、問い詰めているのはほとんど聡。その勢いに、瑠駆真は口も挟めない。
 知りたい気持ちは同じなのに、なぜ自分は行動できない?
 夜の寝室。眠る美鶴。
 もし聡なら―――
 目の前で、端厳な顔立ちが美鶴を睨む。今にも彼女に飛び掛りそうな勢い。両手をグッと握りしめ、時折かるく振り回す。

 今まで、その手を本当に伸ばしてしまった事は、無かったのだろうか?

 ふと、突然胸に沸いた疑問。
 悪く言えば、我を見失う事が多く、口よりも手や足が先に出てしまう彼。
 夏の夜。学校で喧嘩をしたと言っていた。
 そう言えば、美鶴が覚せい剤の揉め事に巻き込まれた時も、当時の美鶴の部屋で二人は口論になったと聞いている。そして彼女は部屋を飛び出し、数学教師とその仲間に捕らえられた。
 美鶴もどちらかと言うと感情的になりやすいタイプだ。言い争いをして部屋を飛び出す姿を想像できなくもない。
 だが、それだけだろうか?
 疑問から生まれた猜疑心(さいぎしん)。瞬く間に膨らみ、振り払おうとする隙も与えず、瑠駆真の全身に浸透していく。
 聡と美鶴は、今までなにも、無かったのだろうか?
 急激に膨張する不安。たまらなく膨れ上がり、潰されそうになる。
 潰されてたまるかよっ!
 僕は、彼女とキスをしたんだ。それも聡の目の前で。
 全校生徒の視線を浴びながら、僕は彼女にキスをした。
 その事実が、唯一瑠駆真に優越を与える。
 僕だって、負けてはいないはずだ。なのになぜだか、遅れを感じる。
 それはただ、小心なだけ?
 己に舌を打つのと同時、入り口から話し声。
 三人それぞれがバラバラに向けた視線を受けて、二人は入り口で足を止めた。
 そのうちの一人と視線が合うや、聡は露骨に眉を寄せる。
「緩」
 呼ばれた義妹も軽く不機嫌を漂わせながら、答えようという素振りも見せない。
 聡もそれを期待はしていない。思わず名を呼んでしまった自分を恥じるように、フイッと視線を動かす先。もう一人は男子生徒。
 知らないヤツ。
 まさか、緩に彼氏?
 あり得ないと思いながらも、一番可能性のある推測に絶句する。ゆえに言葉が出ない。
 一方、瑠駆真は黙ったまま。視線に不審を含ませてはいても、こういう状況において、彼は迂闊に言葉を発したりはしない。
「何?」
 結局、第一声は美鶴。
「何か用?」
 まったく好意の垣間見えない態度に、反応したのは男子生徒。
「なるほど」
 その態度を予測していたのか、対応はシンプル。
「誰に対してもそんな態度を取るんだね。大迫さん」
 美鶴は校内でも有名人。一方的な知り合いは多い。
 だがやはり、見知らぬ人間に気安く名前を呼ばれると、あまり気分はヨロシクない。
「誰よ?」
 さらに不機嫌さの増した声音に、男子生徒はすかさず答える。
「俺は小童谷陽翔。二年三組。同じクラスだよ」







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